【ブックカバーチャレンジ】5日目
中学から進学校に行ってしまったせいか、こまっしゃくれたガキだった私は宗教のことをバカにしていた。
大学1年生で履修した「キリスト教概論」では、ろくに授業を聞かずに先生に喧嘩を売るようなレポートを提出し、「君は授業の何を聞いていたのか」という論評とともにD判定を食らった。先生に悲しい思いをさせてしまったし、よく単位をくれる気になったな、と思う。まあでも、落第させて再履修になって、もう一回自分の講義を受けさせた時に、先生も、もう一度うんざりさせられるのが嫌だったんだろうな。と自分でも思うようなクソレポートだった。ほんと、すまん。
バイト先やサークルで社会を学んだ私は、少しはものの分かる大学院生になっていた。
そのとき、教職課程のために必修となっていた宗教学を履修することになった。
まだ駆け出しと思われる宗教学の若い先生が、おそらく、学生たちが読みとおせるか不安だったのだろう、「少し、とっつきにくいかもしれませんが」と控えめに課題図書として持ってきたのがルドルフ・オットーの「聖なるもの」だった。
私は、内心「キツいな」と思ったという。
訳者の名前が「華園聰麿」って、なんか偉い前時代的なもの読まされるんちゃうか、と。
結果、「聖なるもの」めっちゃおもろいやん!ってなって、レポートの評価もすんげー良かった。
人間、変わるもんですね。
ってかドイツの近現代の学者すげーな、と思ったという。
マックス・ヴェーバーといい、この人といい。