アウトプット
坂口恭平さん、以前から気になっていたが実際に著作を読んだことがなかったので図書館で借りて読んでみた。
あと、雑誌か何かでお見掛けして気になっていた鈴木大介氏さんの著作も。
千葉雅也さん書評
食べたらうんちするように、情報をINPUTしたら何かOUTPUTしないと病気になるで、というのは、心理学の作業療法以上のことを、現在の社会的な構造と組み合わせて、アイデアとして提示しているようで、ふむ、一考の価値ありと思った。
確かに、ずーっと前は、ノートの端に落書きしまくってたんだ。私は。
誰かに見せたり褒められたりしたことはなかったけど。
何かアウトプットしたほうが良いんだろうなぁ。
たしかにアウトプット上手は人生の達人的な趣きがある。
うちの奥さんが好きなテレ朝の「人生の楽園」という番組を見てると、素敵だなという人がたくさん出てきて、いつかそういうことができれば良いなと思います。
40歳記念
大台に達したので一応記念にブログでも書きます。
40ですが、わたしも立派な所帯持ちとなって、普通が偉いわけでもないですけど、まあ、傍目から見ると普通な大人として一生懸命やっております。
この生活がうらやましいという人もいれば、つまらんね、という人もいるだろうけど、今日はそんな話はしません。
純粋にうれしい話としては、お誕生日の朝に、自分の両親から「おめでとう」というメッセージがもらえるのはうれしいです。これも個人的な感想であって、ほかのいろんな立場や状況の人とは感じ方が違うでしょう。が、「個人的にうれしい」ことが、ほかの人にとってはあまりどうでもいいことですけど、自分にとっては大事なんだなぁという所感を抱きましたことをお気持ちとして表明したいと思いました。
やはり娘を授かって、感じることは、40年前の今日は、自分の大事な家族にとっては祝祭の日であったであろうし、それだけ愛情を受けて育ってきたうえで、その愛情に報いるということが、私の一番大事なミッションだということです。
<閑話休題>
しかし過ぎ去る年月は矢のごとく早く、これだけ世相が乱れても、思うところあれど、たんたんと過ぎていきます。
大学、高校の友だちともなかなか会えない日が続いて、取り残され感というか、俺ってほんとに大人になれてるのか、という不安を強く感じます。
そんなこんなで「映画 Fishmans」を吉祥寺UPLINKに見に行ったんですけど、佐藤伸治はあの頃のままでいてくれたし、吉祥寺の街もあの頃のままで、私も不安はあるけど、茂木欣一や柏原譲と同じように歳をとれてるよな、そんなことが感じられました。
佐藤伸治の歌詞は、周りが老成していく中で、取り残され感を感じる私の気持ちにいつでも寄り添ってくれて、FishmansやRadioheadは自分なりに歳を重ねたとしても、その中で辛いことや嫌なことがあっても寄り添ってくれるよな、音楽や詩があったよな、と再確認しました。いつでもそばで鳴っていてくれる音楽です。
私も周り(とくに仕事とか)からすると、ちょっとイタい行動をとってしまうこともありますが、FishmansやRadioheadを聴き、ドストエフスキーやジョン・アーヴィングの著作をたまに読み返しつつ、世間からのお赦しを願いつつ、危うげになんとかバランスを保ちつつ、歩みを進めていきたいなと思います。
「映画 Fishmans」ですが、マネージャーだった植田さんが「私たち、みんな、若かった」と述懐していたとおり、あー若かったんだよな、と当時の映像を見るにつけ感じました。
それに対してスクリーンに映る現代のメンバーたちは、みんな歳をとっていて、(HONZIはいなかったけど)「あー歳をとるってかっこいいな」と思うことができました。
歳とった小嶋さん、欣ちゃん、譲くん、HAKASE、ZAK、関口さん、みんな、すごいかっこよかったな。
Fishmansファンは言われなくても見に行くだろうけど、ほんとにみんな見に行った方がいいよ。
【雑感】誰かのお荷物になる日は突然来るのだ
幡野広志さんのインタビュー記事。
本題についても、深く頷けるのだけど、今の私の心に突き刺さったのは、
僕は病気になったとき、親族や家族から「ダメな人」みたいな扱いをされていたんですよ。
という箇所。
どれだけ人権人権言ったって、弱いものには構ってられないし、それが普通の感覚なんだと思うけど、なんか、みんな見て見ぬふりしてない?
みんな、普段の生活が、山登りするみたいな感覚で、ずっと必死に生きてて、誰かが、「おい、あいつ困ってるぞ」とメンションしない限り、弱いものは見捨てられていく。そいつだけ助ける理由もないし。家族の中だって優先順位あるんだから。
自分は病気にならないと思ってても、病気は突然やってくる。
そうなったときにどういう選択をして、どういう行動がとれるのか。
dependentでもindependentでもなくinterdependentに。結局これに行きつくんだよなぁ。
【ブックカバーチャレンジ】5日目
中学から進学校に行ってしまったせいか、こまっしゃくれたガキだった私は宗教のことをバカにしていた。
大学1年生で履修した「キリスト教概論」では、ろくに授業を聞かずに先生に喧嘩を売るようなレポートを提出し、「君は授業の何を聞いていたのか」という論評とともにD判定を食らった。先生に悲しい思いをさせてしまったし、よく単位をくれる気になったな、と思う。まあでも、落第させて再履修になって、もう一回自分の講義を受けさせた時に、先生も、もう一度うんざりさせられるのが嫌だったんだろうな。と自分でも思うようなクソレポートだった。ほんと、すまん。
バイト先やサークルで社会を学んだ私は、少しはものの分かる大学院生になっていた。
そのとき、教職課程のために必修となっていた宗教学を履修することになった。
まだ駆け出しと思われる宗教学の若い先生が、おそらく、学生たちが読みとおせるか不安だったのだろう、「少し、とっつきにくいかもしれませんが」と控えめに課題図書として持ってきたのがルドルフ・オットーの「聖なるもの」だった。
私は、内心「キツいな」と思ったという。
訳者の名前が「華園聰麿」って、なんか偉い前時代的なもの読まされるんちゃうか、と。
結果、「聖なるもの」めっちゃおもろいやん!ってなって、レポートの評価もすんげー良かった。
人間、変わるもんですね。
ってかドイツの近現代の学者すげーな、と思ったという。
マックス・ヴェーバーといい、この人といい。