エロくもグロくもないナンセンスな日常

ユルい日常のとりとめのない記録

【ブックカバーチャレンジ】2日目

※マンスプクソ野郎…マンスプレイニングに血道を上げる人たち


マンスプクソ野郎という言葉が頭にへばりついて離れない。ここ最近…いや、無意識レベルではここ20年来といっても過言ではない。山口敬之や広河隆一は言わずもがな、渡部建やらなんやらもみんなそうだ。世の中はマンスプクソ野郎に溢れており、私の見たところ、世界の男の半分以上はマンスプクソ野郎なのではないか。私も世論に倣って、マンスプクソ野郎どもを批判したい。あんたら、間違ってるよ、と。しかし、その声が喉まで出かかったところで、ふと立ち止まる。おい、待てよ。お前は女性の味方の皮を被ったマンスプクソ野郎ではないのか、と。

私自身の言動を振り返るに、後悔したかどうかに関わらず、客観的にマンスプクソ野郎的な言動をとってしまったことは多々あった。そして認めよう。それは反射的に出てしまうことすらある。そして気付いてしまったことにはマンスプクソ野郎的な何かは、私の本質的なものの一部分をなしており、矯正がかなり難しいレベルとなっているようにも思える。こんなにマンスプクソ野郎が嫌いなのに!この事実は、かなり長い間、私を苦しめたし、本来健全に保たれるべき自己肯定感を損ねた。

そんな悩みから解放されるために、はっきりとマンスプクソ野郎に石打つ側に回れば、楽になるのではないか、とも考えた。しかし、そんなことをしても、私自身の悩みが解決しないことは、すぐに分かった。なぜならマンスプクソ野郎に石打つ人間の中に、私の最も嫌悪する自己に無批判な正義マンが、大多数存在することに気づいたからだ。

そして今私は多くを学んだと思う。いや、その道の途中にある。マンスプクソ野郎と正義マンという言葉が気づかせてくれたことは、自分はアホだという紛れもない事実と、アホのままでいてはイカンのだ、という自己批判の精神だったのだ。

グレートギャツビーのトムブキャナンやハワーズエンドのヘンリーウィルコックスもマンスプクソ野郎の典型だし、彼らを冷ややかに見るものたちはみな正義マンだ。これらの作品が書かれた時代からみなマンスプクソ野郎的な何かや正義マン的な何かに悩んでいたのだ。

私はハワーズエンドのマーガレット嬢の言葉に私の希望を託したいと思う。権威に盲目的に従うものと、それによって抑圧されるものたちを「ただ、つなぎ合わせることができれば(only connect)」と。それに気づくことでマンスプクソ野郎にも正義マンにもならずにすむ人が少しでも増えることを祈っている。

 

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